国絵図研究会 

                     

                      

国絵図とは

 

 

 

 

    ※詳細については川村博忠(1984)および国絵図研究会編(2005)を参照のこと。

概要

国絵図とは、江戸幕府が国ごとに作成させた地図である。徳川将軍は国家の統率者としての立場から、国単位の地図である国絵図と土地の台帳である郷帳の作成を諸国に命じ、それを提出させて幕府文庫(官庫)に保管した。

 

江戸幕府の国絵図事業

江戸幕府による国絵図事業は、4度行われた。

  慶長国絵図(慶長9年[1604]開始) 縮尺は1里4寸程度 

  国絵図の控図ないし写図の残存状況から、秀吉恩顧の大名の多い西日本諸国のみに作成させた可能性が高い。

  正保国絵図(正保元年[1644]開始) 縮尺は1里6寸

  幕府がはじめて全国68か国すべての国絵図収納を貫徹。縮尺を統一し、軍事・交通上の内容が重視されている。

  元禄国絵図(元禄10年[1697]開始) 縮尺は1里6寸

  正保国絵図ではいまだ不十分であった絵図様式の全国的な統一と、国境記載の厳密化を図った。

  天保国絵図(天保6年[1835]開始) 縮尺は1里6寸

   大名による上納の方式はとらず、諸国から提出された変地の資料によって幕府自らが掛紙によって全国の国絵図を仕立てた。

 

この4回に及ぶ国絵図収納のほかにも、幕府は国絵図を徴収した。

  元和期(元和2〜7年[1617〜1622]頃)

  領地異動などによって国絵図の内容と相違したものに対する個別的徴収。

  寛永10年(寛永9年[1632]開始) 

  幕府は、はじめて諸国へ巡見使を派遣して国情の巡察を行い、上使を通じて全国から国絵図を徴収した。

  寛永15年(寛永15年[1638]開始)

  巡見使上納の国絵図から日本総図を編集しようとしたが、一部に疎略な国絵図があったため該当国により再提出を求めた。

 

日本総図

江戸幕府は全国から集めた国絵図に基づいて日本総図を編集した。日本総図として知られるのは、寛永期の成立とみられる江戸初期の日本図2種類、正保日本図、元禄日本図および享保日本図である。これら江戸幕府の編んだ日本総図は、共通して国々を国界線で明瞭に区画し、国ごとに色別しており、海陸の交通路とともに城所が四角の城形をもって必ず図示される。

 

国絵図の利用とその後

明治政府は行政制度を整備する一方で地誌や地図の編纂を国家の事業として推進した。明治政府による国絵図・郷帳の改訂は江戸幕府よりの継承事業として注目される。政府が収納した明治国絵図は租税の調査資料として利用されたほか、明治6年の万国博覧会に出品された日本地図を作成するために利用されたと考えられるが、同6年の皇城の火災により『皇国地誌』編纂のために太政官正院地誌課に保管されていた多くの収集地図類とともに焼失した。

明治5年に兵部省が陸軍と海軍に分けられると、それぞれの立場から軍用目的の測図業務が推進された。明治6年の地租改正条例に基づき、地籍調査が全国の各市町村に命じられ、同13年までに地籍図が作成された。近代社会の成立にともない、地図の実用性と正確さが求められるようになり、各種の近代的地図が作成されるようになった。

(参考:川村1984・1990,国絵図研究会編2005)

 

 

 

 

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